ヒトの営みの全ては、「幸福」のためにある。
これが、ヒトを考えるときの最も大きな大局観である。
「即、実装できる幸福になる社会デザイン」を描こうとしている。
そのため、「幸福になる社会デザイン」関連の情報収集しているが、その情報が殆どないように感じる。
社会学は、チマチマと分野を細分して、現状分析を並べるだけである。
そんな作業をして楽しいのだろうか?
現実社会を改善する意欲、目標が感じられない。
いくつかの幸福度調査で、日本は下位である。
その状態を改善するのだ、一番になるのだ、そのための社会学なのだ、との気概は無いのか。
もちろん、日本だけでなく、全世界の幸福も視野に入れ、全ての国が、全て同じく幸福度1位になることが、自分が行っている行為の最終目標である、との気概は無いのか。
「幸福」について、マズローの5段階満足度を仮採用してみる。
(大きく分類すると、肉体・精神に分割できると思う)
この幸福を導き出せる社会の仕組み・デザインを構築すべきなのである。
この大きな枠組みで、思考している人は、マルクス・空想的社会主義者くらいではなかろうか。
「幸福」のために、どのような社会デザインがいいのか。という、「目的➡達成方法」という論理構成になるべきである。
・ケインズは、目的意識無しで、現状の資本主義を前提として、その上に立つ経済の仕組みを分析しているだけである。
『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、偉大な作業であるが、目的意識無しでの作業は、痙攣でしかない。
・マルクスの目的意識有りの経済分析は良しとするが、その目的の位置づけがおざなりすぎる。
プロレタリアートが革命で資本家を殲滅する、プロレタリアート独裁、が目的という。
幸福実現にはプロレタリアート独裁になればいいという、何故そうなるのか、の切込みが浅すぎる。
マズローの5段階満足度でいえば、労働が自己疎外から自己実現の形態になれば、オッケー、としかいってない。
人間全体として、どのような条件がそろえば、幸福感が発動されるのか、についてはなにも言ってない。
(プロレタリアート、資本家は社会での役割分担でしかない。どの社会も機能するには役割分担が必要である。
プロレタリアート独裁になっても、やはり、全体をまとめる役割、個別に労働する役割、は変わらない。
問題は、個々人が幸福感をもって生活できるか、なのである。革命を起こしても、それだけでは何も変わらない)
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